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猫好きゲイ男子のひとりごと。

「誇りある本質主義者」運動を企むゲイの文系バカ大学生が徒然なるままに考えを表明するブログ。

同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか(1.1)

 この記事「同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか」は1記事では完結していません。まずは<目次>をご覧いただき,そちらから皆さん各自気になる記事をお読みになって下さい。

はじめに(1.1)

私はなぜこの記事を書くのか(1.1.1)

 この記事は「同性愛は病気なのか」という問いに答えることを目的としている。この問いに対して何か答えている書籍やインターネット上の記事は私の知る限りいくつかある。牧村朝子氏同性愛は「病気」なの?ー僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクルはその筆頭だろう。だからそれらに記されている回答に満足するのであれば,私のようなどこの馬の骨とも知れない人間がわざわざ下手な文章を書く必要はなく,優れた書籍や記事を紹介すれば良いだけの話である。しかし,それでも私がこの記事を書こうとしているのは,お察しの通り私がそうした現存するものに満足しないからである。

 これらの書籍や記事で書かれている議論は,そうした言葉が実際に文章中で言及されているかはともかく,いわゆる構築主義という立場に立脚しているものだ。そこでは「ゲイ」や「レズビアン」,「バイセクシュアル」,「トランスジェンダー」といったセクシュアリティに関するカテゴリーの歴史的な不安定性を告発することによって,そうしたカテゴリーによって名指されるものの実在性が否定され,それらの実在性を前提としたあらゆる言説が意味をなさないことが仄めかされる。すなわち,かつてミシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)が指摘したように,領域や時代が異なれば,あるものに関する人々の考えは全く別様のものになりうるのであり,それはセクシュアリティに関するカテゴリーにも当てはまる。それらは偶発的なものであり,そうしたカテゴリーによって名指されるべきものが世界に予め存在しているのではない。だからそうしたカテゴリーに名指されるものが病気であるか問うこと自体無意味なことである,といった具合に。同様の主張によって同性愛をめぐる自然科学的研究に対しても冷たい反応が人文・社会科学の領域からは示される。

 しかしながら,「同性愛は病気なのか」という問いに対して上記のような主張をもって答えた気になるのは果たして妥当なのか。それはインテリ連中のいわば自己陶酔の斜め45度な回答ではないのか。私が以下で主張するのは,確かに上記のような主張には傾聴すべきこともあるが,この問いに限っては不適切なアプローチである,ということである。なぜなら,歴史的に不安定なカテゴリーは何もセクシュアリティのカテゴリーに限ったものではなく,他のあらゆる精神疾患のカテゴリーについても当てはまるのであるから,そうした議論が二重基準に陥らないためには,現在精神医学で疾患として認識されているあらゆる精神疾患もまた疾患ではなく精神医学は神話であるとの極端な主張を伴わなければならないからである。しかし,上述のような立場の人々でも精神医学自体を否定しようとする大胆な人はおそらくいないであろう。

 あらゆる事物が社会的に構築されているというのは当然のことだ。であるからこそ,「同性愛は病気なのか」という問いに対してカテゴリーの社会的構築性を主張したところで,それはほとんど何も言っていないことに等しい。私たちが「同性愛は病気なのか」と問うとき,そこで求められるのは,「あらゆるものが社会的に構築されているこの世界において,等しく社会的に構築されているのにもかかわらず,あるものを病気に振り分けあるものをそうしない,現在のその判別の基準はどのようであるのか」ということである。しかしながら,そうしたことに触れている文章に出会うことはほとんどない。たとえば現在のAPA(アメリカ精神医学会)の立場を書くことはとても簡単なことであるはずなのに。それはとりもなおさず「同性愛」概念の歴史的不安定性の告発によりすべて答えた気になっているがために他ならないだろう。

 以下では,まず現在の精神医学における同性愛に対する認識を確認し,上述の主として人文・社会科学の領域で好まれる(社会)構築主義((社会)構成主義)の立場を吟味する。次に,最初に見た精神医学の立場はどのような認識に立脚しているのかを,生物学的機能不全について進化心理学的な視点を取り入れながら明らかにし,最後に同性愛に関して現時点で得られている自然科学的知見を,それらをどう捉えるべきか考えつつ紹介する。