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猫好きゲイ男子のひとりごと。

「誇りある本質主義者」運動を企むゲイの文系バカ大学生が徒然なるままに考えを表明するブログ。

同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか(2.1.1)

同性愛は病気なのか

 この記事「同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか」は1記事では完結していません。まずは<目次>をご覧いただき,そちらから皆さん各自気になる記事をお読みになって下さい。

今回は社会学者が同性愛の自然科学的研究につれないのはなぜかって話。

前回の振り返りと今回のテーマ

 前回は現在の精神医学における「同性愛は病気ではない」という認識を確認しました。(同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか(1) - 猫好きゲイ男子のひとりごと。

 さて,私たち偉大な一般人は「同性愛は病気なの?」という話になるとこんなふうに考えたくなるわけです。のどこかが違うんじゃない?とか,うーん遺伝かな?とか。実際そういった自然科学的研究もあります。ところが,そういう話が聞きたくて私たちがウズウズしていると,水を差してくる人たちがいます。ジェンダー関連の研究をしている社会学者の人たちです。たとえば,社会学者の河口和也氏はその著書*1の中で次のように述べています。「こうした研究にふれるたびに,私は違和感を抱いてきました」(p.3)。なるほど,そうした懐疑的な態度は確かに「同性愛の原因を追究しようという企て」(p.8)とか「動物行動学などの見地からすれば,(引用者注:同性愛関連遺伝子の)きわめて興味深い「発見」ということになるだろう。」(p.6)とかいった表現に表れています。そして別にそんな自然科学的研究などに言及するまでもなく「同性愛は病気でも異常でもない」といった顔で得意気です。ところが彼らにとっては常識の構築主義とかいう高尚な考えに疎い一般人からすると,「はて?」といった感じになるわけです。ですから私たちはまず,「同性愛は病気なのか」を考える前に,なぜ社会学者の人たちがそんな余裕綽々なのかを知ることから始めねばなりません。

まずは,私が自分がゲイだと気付いたしょうもないエピソードを…(読み飛ばしてもOK☆)

 さて,皆さんの初恋は一体いつだったのでしょうか。小学校4年を過ぎた頃から身の回りに付き合っている男女が何組かいたのを記憶していますが,私はというと恋愛の「」の字も知らなかった。男子も女子も誰に対しても好きだなどと思ったことは一度としてなかったのです。(なんてったって「2人が愛し合っているのを神様が感じ取って子供を授けてくれるんだ」,と真面目に!信じていたのですから!!)

 それで,「症状」が現れ始めたのは中学1年の冬でした。私が仲の良い女子2人と図書委員会の仕事で図書室にいたときのこと。私はその女子2人とおしゃべりをしていたのですが,その肩越しに3年生の男女の先輩たちが見えていました。そしてその中の,ある男子の先輩を見つけると私は妙に彼に目がいってしまったのです。それからというもの彼を学内で見つけると見たい衝動が抑えられなくて。そうです!「イケメン-ガン見症候群」の始まりです!!(中学の在学中どれほどこれに苦しめられたことか!!)

  さて,そうしてかっこいい男子に妙に目がいってしまってなんかおかしいなぁ,変だなぁと思っていた私ですが(それが恋愛感情だともよく分かってなかった),ある日「ゲイ」という言葉に出会ったのです。私は吹奏楽部でクラリネットを吹いていましたが,そのパート練習でのことでした。私は男子1人で,あとはみんな女子でしたが,どういうわけか「ゲイ」の話になったのです。私はなにせピュア!でしたから,ゲイなんて言葉知りません。だが,聞いているとどうやら男が好きな男のことらしい。「おお!これだ!僕はゲイなんだ!!」これが私の「ゲイ」との出会いでした。

ああ,何てことだ!「ゲイ」も社会的構築物にすぎないだなんて!!

 さて,こんなエピソードに始まり,おかげさまで?,現在私は自分がゲイであることに何の後ろめたさも感じませんし,むしろ誇りに思うようになりました。ですから「ゲイ」という性的アイデンティティは大切な私の一部です。しかし,ここでとんでもない敵が現れたじゃあありませんか!!なんと「ゲイ」というアイデンティティのカテゴリーも社会的に構築されたものだとおっしゃる!!「ゲイ」というものにとても愛着を持っている私にとって確固たる「ゲイなるもの」は絶対に存在していてもらわなければ困るのに!!どこかの誰かさんなんて『脱アイデンティティ』なんておっしゃるんですよ?(だから下のツイートのような,あなたも同性を好きになるかもしれませんよ的話は大嫌いなのです。そんな誰にでもゲイになられてたまるか!という風に)ただ,私も少し感情的に過ぎるのであって,この間大学の市民向け講座で聞いた話によると,たとえばクィア・スタディーズがアイデンティティを否定しているというわけでもないようなのですが。

 はい,話を元に戻して。ゲイは,ジェンダー論に興味を持ちやすい傾向がありますが(ジェンダーのゼミの圧倒的ゲイ率を見よ。),私も例に漏れず大学1年生のときはジェンダーの本を読んでいたものです。しかし,どうも好きになれない。なぜか。それはそうした本は全て構築主義の立場で書かれているからです社会学者の著作ではないものからの引用ですが,たとえば下のような言説はまさに構築主義的なものです。文筆家の牧村朝子氏による著書『同性愛は「病気」なの? ー僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル *2から。

同性愛の原因については今まで,医学・遺伝子学・動物行動学・社会学などあらゆる学問分野で研究されてきましたが,「これが原因です!」とすべてを語りつくした論文はひとつも出てきていないという状況です。おそらく,今後も出てこないでしょう。なぜなら,"同性愛の原因"を考えるという態度は,しばしば「同性愛者は同性愛者でない人とは客観的に区別できる」*3という前提の上に成り立っており,この一歩手前の問いを置き去りにしたままの態度だからです。

 え?この人は何が言いたいのかって?そんなの私も知りませんよ。でもきっとこういうことです。私たちはこんな風に考えがち。あたかもこの世界に当然「ゲイ」というカテゴリーに含まれるべき「ゲイなるもの」をその内に秘めた人々がいて,そうした人々を指す言葉として「ゲイ」という言葉があるべくしてあるのだ,と。でも構築主義的な考え方をする人はそうは考えません。ではどう考えるのか。

サピア=ウォーフの仮説

 たとえば,次のように考えるのです。サピア=ウォーフの仮説(Sapir-Whorf hypothesis)で有名なベンジャミン・リー・ウォーフBenjamin Lee Whorf, 1897-1941)*4の1940年の論文「科学と言語学(Science and Linguistics)」*5から。

 われわれは,生まれつき身につけた言語の規定する線に沿って自然を分割する。われわれが現象世界から分離してくる範疇とか型が見つかるのは,それらが,観察者にすぐ面して存在しているからというのではない。そうではなくて,この世界というものは,さまざまな印象の変転きわまりない流れとして提示されており,それをわれわれの心−−−つまり,われわれの心の中にある言語体系というのと大体同じもの−−−が体系づけなくてはならない

 そしてこうした考え方を裏付ける例として有名なのは,ウォーフによって有名になったエスキモー語の話です。私たち日本人は,どんな状態の雪も「雪」としか言うことができないけれども,エスキモー語では「降る雪」,「積もった雪」,「氷のように固めた雪」,「解けかけの雪」,「風に舞う雪」などに対応する言葉をもっていて,それらすべてを違ったものとして認識するのだそうです*6。こうした話は何とも信じがたいですが実際認知のレベルでもそうであるらしいということが,認知科学者の今井むつみ氏による著作ことばと思考*7の中で大変面白く説得的にまとめられています。

まとめ

 うん,ちょっと話が逸れました。こうした世界観は私なりにまとめるとこうでしょう。「もともと世界は連続的で何の境界線もない。ただ人間が言語によってそこにカテゴリーをつくって初めて,そうしたカテゴリーによって分けられたモノを認識することができるようになるんだ」。そしてこれを本題の同性愛の話に戻すとこうなります。セクシュアリティのあり方は実際には既存のカテゴリーでは言い尽くせないほど多様で(ほら,性は連続的だ!グラデーションだ!ってよく聞くじゃありませんか?*8),ストレートゲイレズビアントランスジェンダーといったカテゴリーは決して自明のものなのではない。こうした考え方は性科学者アルフレッド・キンゼイAlfred Kinsey, 1894-1956)の次の言葉によく表されています*2

男性は,異性愛者と同性愛者という2つの不連続な集団からなるわけではない。…自然界に不連続なカテゴリがあまり見当たらないというのは,分類学の基本である。ただ,人間の価値観だけがカテゴリをつくりだし,ものごとを別々の小さな箱に無理矢理押し込めているだけなのだ。命ある世界は,なにもかもすべてがつながっている

 そしてこんなふうに性は連続的だから,「ゲイ」という言葉にピッタリ対応する「ゲイなるもの」がはっきりと世界に存在しているわけじゃない。そして同性愛の背景を探る自然科学的研究はそういう本当はあるはずのない「ゲイなるもの」の存在を前提にして,原因を探し出そうとしている。こんなふうに構築主義の立場に立つ社会学者の人たちは考えているのではないでしょうか。だからこそこんな言葉が出てくるのです。「これが原因です!」と言えるものは「今後も出てこないでしょう」*2

 さて,これで今回の目標は達成です。社会学者の人たちが考えていることも少しは分かった?ところで,次回は,社会学者の人たちがこうした構築主義的な考え方を好むのはどうしてなのか,(遺伝とかの話が大好きな人には回り道ですが)同性愛を取り巻いてきた歴史的な事情を振り返ることで考えることにしましょう。

*1:河口和也・風間孝, 2010,『同性愛と異性愛岩波書店, 3, 6, 8.〈流〉◯

*2:牧村朝子, 2016,『同性愛は「病気」なの? ー僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル星海社, 16, 188〈流〉◯

*3:こうした見方は「本質主義」として批判的に扱われます。無論,私は「誇りある本質主義者」運動をしているのです。

*4:ウォーフは構築主義とは関係ありませんが,しかしその考え方は社会学における構築主義的なものの見方に通じるものです。実際,ジェンダー論の入門書『ジェンダー論をつかむ』〈未〉の中でも構築主義の説明にウォーフが言及されています。

*5:Whorf, Benjamin L., 1940,“Science and Linguistics,” MIT Technology Review,42: 229-231. (=1993, 池上嘉彦訳「科学と言語学」ジョン・B・キャロル編『言語・思考・現実講談社,153) 〈未〉〈聞〉◎

*6:酒井邦嘉, 2002,『言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか中央公論新社, 62.〈流〉◯

*7:今井むつみ, 2010,『ことばと思考岩波書店.〈流〉◎

*8:「性はグラデーションである」という耳慣れた話ですが,本当はグラデーションではないかもしれない,という興味深い記事がありました。私もまだちゃんと見ていませんがご参考までに。

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