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猫好きゲイ男子のひとりごと。

「誇りある本質主義者」運動を企むゲイの文系バカ大学生が徒然なるままに考えを表明するブログ。

同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか(2.5)

 この記事「同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか」は1記事では完結していません。まずは<目次>をご覧いただき,そちらから皆さん各自気になる記事をお読みになって下さい。

自然主義的誤謬(2.5)

自然主義的誤謬(2.5.1)

 ところが,この「可変的」な文化を変えるためにこそ「普遍的」かつ「不変的」な「自然」に訴える必要がある,というのは一見もっともらしく聞こえるし,そうだそうだと言いたいところなのであるが,ことはそれほど単純ではない。

 生物学関係の一般啓蒙書を読んでいると,しばしば出くわす言葉に自然主義的誤謬」というものがある。この考え方の原型はイギリスの18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)の『人間本性論』の中に確認され,後に哲学者ジョージ・エドワード・ムーア(George Edward Moore, 1873-1958)によって「自然主義的誤謬(naturalistic fallacy)」*1として定式化された*2。これは「自然的な性質や関係からある規範を導いてはいけない」,言い換えれば,「人間の一般的な性質がこう「である」からといって,そうである「べし」とは必ずしもいえない」*3ということを指す言葉であるが,より分かりやすく明快に書かれていると思うものを以下に引用しよう。著名なオランダの動物行動学者フランス・ドゥ・ヴァールの倫理学的観点からも優れた洞察に富む著作利己的なサル、他人を思いやるサル―モラルはなぜ生まれたのか』からの引用である。このドゥ・ヴァールについては後で再び触れることになる。

自然から倫理規範を引き出そうとするのは,とても危険なことだ。生物学者は物事の成り立ちを説明したり,場合によっては人間の性質を詳しく分析するかもしれないが,行動の典型的な形や頻度(「正常」かどうかを統計的な意味で判断する)と,行動の評価(道徳的な判断)のあいだには,確かな関連性などないのである。……自然から何らかの規範を引きだそうとする試みは,「自然主義的誤信」と呼ばれており,いまにはじまった話ではない。物事の状態を表す「である」を,物事のあるべき姿を表す「であるべきだ」に移しかえることは不可能なのだ。*4

なぜ生物学者が自然主義的誤謬に言及するのか(2.5.3)

 では,生物学者はなぜわざわざこの自然主義的誤謬の話に言及するのか。それは歴史上,「生物学的事実」と称して様々な差別の根拠に科学が動員されてきた過去があるがゆえにほかならない。たとえば進化生物学者のスティーブン・ジェイ・グールド(Stephen Jay Gould, 1941-2002)による『人間の測りまちがい―差別の科学史』は,そうした科学の側面を描く著作として知られる。それゆえ,人文・社会科学周辺の人々には警戒感も強く,たとえば社会生物学者のエドワード・オズボーン・ウィルソン(Edward Osborne Wilson, 1929-)は,その数多くの研究者たちの研究成果を巧みにまとめた優れた大著『社会生物学』の中で,ごくわずか人間にも言及するということをしてしまったがために,実際にはリベラルな考えの持ち主だったのにもかかわらず,フェミニストの女性たちに水を浴びせかけられるという憂き目を見た*5。生物学周辺の研究者たちはこうした警戒感を理解しているがゆえにわざわざ予防線を張っているのである。私たちに差別を正当化しようという意図はありませんよ,とアピールしているのだ。そしてこの自然主義的誤謬の考え方を積極的に受け入れ,たとえどんな性差の存在が指摘されようともなんら恐るるに足りない,という立場を示している*6社会学者も存在し,進化生物学にも一定の理解を示す加藤秀一はその1人である。

 ただ,ここで極めて不都合な壁に直面するのは,先に見た「可変的」な文化を変えるためにこそ「普遍的」かつ「不変的」な「自然」に訴えるという戦略は,まさにこの自然主義的誤謬を犯すことにほかならないということだ。生物学的事実が差別の根拠とされるときには「それは自然主義的誤謬だ」と言って退け,逆に既存の差別を打ち破るのに都合が良い生物学的事実があるときにはそれを積極的に活用するというのはご都合主義の二重基準にほかならない。ところがこうした二重基準はかなり多く存在する。このことを次に見てみよう。
 

 

*1:自然主義的誤謬(naturalistic fallacy)の邦訳語には「自然主義的誤謬」,「自然主義的誤信」,「自然主義の誤謬」など乱れがある。

*2:Ridley, M., 1997, The Origins of Virtue: Human Instincts and the Evolution of Cooperation, Experience and What Makes Us Human, New York: Viking.(=2000,岸由二監修・古川奈々子訳『徳の起源―他人をおもいやる遺伝子翔泳社.)

*3:小田亮・五百部裕編, 2013,『心と行動の進化を探るー人間行動進化学入門』朝倉書店, 33-34

*4:de Waal, F., 1996, Good Natured: The Origins of Right and Wrong in Humans and Other Animals, Cambridge: Harvard University Press.(=1998,西田利貞・藤井留美訳『利己的なサル、他人を思いやるサル―モラルはなぜ生まれたのか草思社, 69-70)

*5:Alcock, J., 2003, The Triumph of Sociobiology, Oxford, UK: Oxford University Press.(=2004, 長谷川眞理子訳『社会生物学の勝利―批判者たちはどこで誤ったか新曜社.)

*6:加藤秀一, 2006b,「ジェンダーと進化生物学」江原由美子山崎敬一編『ジェンダーと社会理論有斐閣.

同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか(2.4)

 この記事「同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか」は1記事では完結していません。まずは<目次>をご覧いただき,そちらから皆さん各自気になる記事をお読みになって下さい。

本質主義の果たしうる役割(2.4)

マグヌス・ヒルシュフェルト(2.4.1)*1

 マグヌス・ヒルシュフェルト(Magnus Hirschfeld, 1868-1935)はユダヤ人でドイツの性科学者であった。彼は1897年に世界初の同性愛者の人権擁護団体「科学的-人道的委員会Wissenschaftlich-humanitäre Komitee (WhK)」を組織し,男性間の性行為を2年以下の懲役刑とした当時のドイツ帝国刑法(1871年)175条撤廃のために奔走した,自身も同性愛者の人物である。だが,社会学のゲイ・スタディーズの文脈において,彼について肯定的に記述されることは少ない。というのは「物事には,容易には変化しがたい普遍的な本質がある」*2と考える本質主義をその批判の対象とする構築主義からすると,同性愛やバイセクシュアリティの先天的な基礎を主張した彼の立場は「本質主義」に他ならないからである。だが,今日において彼の業績に対して,ただ「あれは誤ったアプローチであった」と消極的な評価を下すことに我々は極めて慎重な態度をとらねばなるまい。単純に性科学は「本質主義」であり,今日の私たちの「構築主義」よりも劣っているという評価はできないのである。彼の正当な評価は,なぜ彼が同性愛の先天的基礎に訴えるというアプローチを採用せねばならなかったのかということを考えることによって初めて可能になるのである。

ピュシスとノモス(2.4.2)*3

 「同性愛は病気なのか」という問いに対して,構築主義を好む人々は,「同性愛」の捉え方が時代や社会によって異なるということを指摘して得意気である。そのような相対性にも関わらず,同性愛の先天性や生物学的基礎といった本質的特性を探求することは愚かなことだと。しかしながら,ヒルシュフェルトを評価しないそのような人々の理解とは裏腹に,彼とてそんな構築性は十分に理解していたというのは驚くべきことであろうか。なぜ彼は同性愛の先天的基礎を主張せねばならなかったのか。これを理解するためには,紀元前4-6世紀に古代ギリシアの〈ソクラテス以前の思想家たち〉(physiologoi)が共通して論じたピュシス(physis)とそれに対置されるものとしてのノモス(nomos)について知らねばならない。

 このギリシア語のピュシス(physis)は,ラテン語ナトゥーラ(natura),英語のnatureに対応するものであり,「自然」と訳すことができるが,ここでの意味は「本性」「真の性質」「真の在り方」という意味である。これはあらゆるものに通底する真の在り方,世界全体に秩序や調和をもたらす原理のようなものを指し,人間の取り決めた法(ノモス, nomos)と対比して不文の法(agraphos nomos)とも理解される。このとき,人間もまた自然の一部であるから人間はこの「自然」に従って生きることが望ましい。ところが人間はしばしば自然から逸脱し,人間の定めた法,実定法たるノモスがピュシスと対立することがあるのである。そして〈ソクラテス以前の思想家たち〉はこのような場合,修正されるべきはノモスの方であると考えた。なぜならノモスがピュシスと齟齬を生じているということはすなわち人間の万物の本性からの乖離の現れにほかならないからである。

「科学によって正義へ(per scientiam ad justitiam)」(2.4.3)*4*5

 そしてこのような思想的背景を踏まえたとき,なぜヒルシュフェルトが同性愛の先天的基礎を主張せねばならなかったのかが理解できるのである。同性愛に先天的基礎がある,つまり同性愛者が一定の割合で必ず生まれるということは,それが自然の摂理であるということを示している。そしてこのように自然(ピュシス, physis)が生み出す存在をノモスたる刑法175条によって迫害することは正当なことであるのか。答えは当然"否"なのである。人間の構築物たる刑法175条を否定するのに,「同性愛」の社会的な構築性を論じたところで何の意味もないのであり,文化を打ち壊すためにこそ「自然」にそして科学に訴える必要があったのである。そして「可変的」な文化を変えるためにこそ「普遍的」かつ「不変的」な「自然」が重要であるということは後で自然主義的誤謬」に触れるにあたっても再びたち戻ることになるだろう。ヒルシュフェルトの性科学研究所の記念碑には彼の次のような信条がラテン語で刻まれている。「科学によって正義へ(per scientiam ad justitiam)」

 

 

 

*1:河口和也・風間孝, 2010,『同性愛と異性愛岩波書店.

*2:赤川学, 2001,「言説分析と構築主義上野千鶴子編『構築主義とは何か勁草書房, 64

*3:木田元須田朗編, 2016,『基礎講座:哲学』筑摩書房.

*4:檜垣立哉春日直樹市野川容孝, 2013,「<座談会> 来たるべき生権力論のために」『思想』1066: 31-32.

*5:市野川容孝, 2003b,「2002年読書アンケートー2 Magnus Hirschfeld, Die Homosexualität des Mannes und des Weibes. 1914(→1984, Walter de Gruyter)」『みすず』502: 91-92

同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか(1.1)

 この記事「同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか」は1記事では完結していません。まずは<目次>をご覧いただき,そちらから皆さん各自気になる記事をお読みになって下さい。

はじめに(1.1)

私はなぜこの記事を書くのか(1.1.1)

 この記事は「同性愛は病気なのか」という問いに答えることを目的としている。この問いに対して何か答えている書籍やインターネット上の記事は私の知る限りいくつかある。牧村朝子氏同性愛は「病気」なの?ー僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクルはその筆頭だろう。だからそれらに記されている回答に満足するのであれば,私のようなどこの馬の骨とも知れない人間がわざわざ下手な文章を書く必要はなく,優れた書籍や記事を紹介すれば良いだけの話である。しかし,それでも私がこの記事を書こうとしているのは,お察しの通り私がそうした現存するものに満足しないからである。

 これらの書籍や記事で書かれている議論は,そうした言葉が実際に文章中で言及されているかはともかく,いわゆる構築主義という立場に立脚しているものだ。そこでは「ゲイ」や「レズビアン」,「バイセクシュアル」,「トランスジェンダー」といったセクシュアリティに関するカテゴリーの歴史的な不安定性を告発することによって,そうしたカテゴリーによって名指されるものの実在性が否定され,それらの実在性を前提としたあらゆる言説が意味をなさないことが仄めかされる。すなわち,かつてミシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)が指摘したように,領域や時代が異なれば,あるものに関する人々の考えは全く別様のものになりうるのであり,それはセクシュアリティに関するカテゴリーにも当てはまる。それらは偶発的なものであり,そうしたカテゴリーによって名指されるべきものが世界に予め存在しているのではない。だからそうしたカテゴリーに名指されるものが病気であるか問うこと自体無意味なことである,といった具合に。同様の主張によって同性愛をめぐる自然科学的研究に対しても冷たい反応が人文・社会科学の領域からは示される。

 しかしながら,「同性愛は病気なのか」という問いに対して上記のような主張をもって答えた気になるのは果たして妥当なのか。それはインテリ連中のいわば自己陶酔の斜め45度な回答ではないのか。私が以下で主張するのは,確かに上記のような主張には傾聴すべきこともあるが,この問いに限っては不適切なアプローチである,ということである。なぜなら,歴史的に不安定なカテゴリーは何もセクシュアリティのカテゴリーに限ったものではなく,他のあらゆる精神疾患のカテゴリーについても当てはまるのであるから,そうした議論が二重基準に陥らないためには,現在精神医学で疾患として認識されているあらゆる精神疾患もまた疾患ではなく精神医学は神話であるとの極端な主張を伴わなければならないからである。しかし,上述のような立場の人々でも精神医学自体を否定しようとする大胆な人はおそらくいないであろう。

 あらゆる事物が社会的に構築されているというのは当然のことだ。であるからこそ,「同性愛は病気なのか」という問いに対してカテゴリーの社会的構築性を主張したところで,それはほとんど何も言っていないことに等しい。私たちが「同性愛は病気なのか」と問うとき,そこで求められるのは,「あらゆるものが社会的に構築されているこの世界において,等しく社会的に構築されているのにもかかわらず,あるものを病気に振り分けあるものをそうしない,現在のその判別の基準はどのようであるのか」ということである。しかしながら,そうしたことに触れている文章に出会うことはほとんどない。たとえば現在のAPA(アメリカ精神医学会)の立場を書くことはとても簡単なことであるはずなのに。それはとりもなおさず「同性愛」概念の歴史的不安定性の告発によりすべて答えた気になっているがために他ならないだろう。

 以下では,まず現在の精神医学における同性愛に対する認識を確認し,上述の主として人文・社会科学の領域で好まれる(社会)構築主義((社会)構成主義)の立場を吟味する。次に,最初に見た精神医学の立場はどのような認識に立脚しているのかを,生物学的機能不全について進化心理学的な視点を取り入れながら明らかにし,最後に同性愛に関して現時点で得られている自然科学的知見を,それらをどう捉えるべきか考えつつ紹介する。

 

 

同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか <目次>

同性愛は病気なのか

 このブログでは当座「同性愛は病気なのか」というテーマただそれだけを設定し,それを考えることだけを目的としています。バカな大学生が本を読んでいるだけでは片端から忘れてしまうので、備忘録がてら自分なりに整理するために書いているものです。以下はその目次であり,皆さんの関心に沿ってリンクに飛んでいただくと良いでしょう。ただ現状では全く記事が完成していませんし,怠惰な私のことですから更新は遅々たるものになるでしょうが。下方に参考文献として挙げる予定の文献を列挙していますからお読みになると良いでしょう。

1. はじめに

  1. はじめに(1.1):私はなぜこの記事を書くのか(1.1.1)/この記事を書く動機ーもう1つのテーマ(1.1.2)
  2. 精神医学における現在の立場(1.2)「同性愛は病気なのか」という問い(1.2.1)「同性愛は病気ではない」ということになっている(1.2.2)

2. 構築主義について

  1. 構築主義サピア=ウォーフの仮説(2.1.1)/情動と感情(2.1.2)/フェルディナン・ド・ソシュール(2.1.3)/ジャック・デリダ(2.1.4)/ミシェル・フーコー(2.1.5)/客観主義と本質主義(2.1.6)/何が社会的に構成されるのか(2.1.7)/自然科学と社会科学(2.1.8)

  2. 構築主義はなぜ好まれるか:同性愛の犯罪化と病理化(2.2.1)/ナチスと同性愛(2.2.2)/レスポンデント条件づけとオペラント条件づけ(2.2.3)/報酬系(2.2.4)/ロバート・ガルブレイス・ヒース博士の実験:オペラント条件づけによる同性愛の「治療」(2.2.5)/エイズ危機(2.2.6)

  3. 社会学者に同性愛の話をさせた場合:「行為」から「性質」へ

  4. 本質主義の果たしうる役割マグヌス・ヒルシュフェルト(2.4.1)ピュシスとノモス(2.4.2)「科学によって正義へ(per scientiam ad justitiam)」(2.4.3)

  5. 自然主義的誤謬自然主義的誤謬(2.5.1)/ヒュームの法則(2.5.2)/価値自由(2.5.3)/なぜ生物学者が自然主義的誤謬に言及するのか(2.5.4)

  6. 自然主義的誤謬は誤謬なのか:瀰漫する自然主義的誤謬(2.6.1)/自然主義的誤謬と決別したフランス・ドゥ・ヴァール(2.6.2)/ボトムアップの道徳性(2.6.3)/差別主義者に一言(2.6.4)/チェリー・ピッキング(2.6.5)

  7. 逆-自然主義的誤謬:セックスとジェンダー(2.7.1)/マーガレット・ミードの神話(2.7.2)/とある玩具のCMの話(2.7.3)/倫理によって形而上学を動かすことはできない(2.7.4)

3. なぜ同性愛は病ではないのか

  1. 自然は「正常/異常」を示さない:「盲目の時計職人」

  2. 何が生物学的機能不全か進化心理学と精神医学/同性愛は生物学的機能不全か

  3. 疾患の定義:生物学的機能不全は疾患の必要条件でも十分条件でもない

  4. 精神医学の役割:それでも「正常/異常」の境界を定めなければならない/トランスジェンダーについての補足

4. 同性愛の生物学的基盤

  1. Nature via Nurture:人間の本性(4.1.1)/進化心理学(4.1.2)/行動主義(4.1.3)/社会生物学論争(4.1.4)/行動遺伝学(4.1.5)/遺伝・環境・発達(4.1.6)/「空白の石版」であることは本当に望ましいのだろうか(4.1.7)

  2. 同性愛と遺伝子:「遺伝子万能神話をぶっとばせ」(4.2.1)/アニマとアニムスなんて勘弁してよ(4.2.2)/遺伝率(4.2.3)

  3. 「同性愛遺伝子」が淘汰されてこなかったという問題:再び進化心理学(4.3.1)/血縁淘汰仮説(4.3.2)/多面発現による平衡淘汰仮説(4.3.3)
  4. 脳における性差

  5. 同性愛者の心的傾向:ゲイは性欲が強いのか(4.5.1)

  6. 性自認についての補足

参考文献(として私がげる予定の文献)

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Whorf, Benjamin L., 1940,“Science and Linguistics,” MIT Technology Review,42: 229-231. (=1993, 池上嘉彦訳「科学と言語学」ジョン・B・キャロル編『言語・思考・現実講談社.)

Wilson, Edward O., 1978, On Human Nature, Cambridge: Harvard University Press.(=1997, 岸由二訳『人間の本性について筑摩書房.)

Young, L. and Alexander B., 2014, The Chemistry between Us: Love, Sex, and the Science of Attraction, Current.(=2015, 坪子理美訳『性と愛の脳科学ー新たな愛の物語中央公論新社.)

米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝, 2000, 『優生学と人間社会ー生命科学の世紀はどこへ向かうのか講談社.

 

同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか(2.1.1)

同性愛は病気なのか

 この記事「同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか」は1記事では完結していません。まずは<目次>をご覧いただき,そちらから皆さん各自気になる記事をお読みになって下さい。

今回は社会学者が同性愛の自然科学的研究につれないのはなぜかって話。

前回の振り返りと今回のテーマ

 前回は現在の精神医学における「同性愛は病気ではない」という認識を確認しました。(同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか(1) - 猫好きゲイ男子のひとりごと。

 さて,私たち偉大な一般人は「同性愛は病気なの?」という話になるとこんなふうに考えたくなるわけです。のどこかが違うんじゃない?とか,うーん遺伝かな?とか。実際そういった自然科学的研究もあります。ところが,そういう話が聞きたくて私たちがウズウズしていると,水を差してくる人たちがいます。ジェンダー関連の研究をしている社会学者の人たちです。たとえば,社会学者の河口和也氏はその著書*1の中で次のように述べています。「こうした研究にふれるたびに,私は違和感を抱いてきました」(p.3)。なるほど,そうした懐疑的な態度は確かに「同性愛の原因を追究しようという企て」(p.8)とか「動物行動学などの見地からすれば,(引用者注:同性愛関連遺伝子の)きわめて興味深い「発見」ということになるだろう。」(p.6)とかいった表現に表れています。そして別にそんな自然科学的研究などに言及するまでもなく「同性愛は病気でも異常でもない」といった顔で得意気です。ところが彼らにとっては常識の構築主義とかいう高尚な考えに疎い一般人からすると,「はて?」といった感じになるわけです。ですから私たちはまず,「同性愛は病気なのか」を考える前に,なぜ社会学者の人たちがそんな余裕綽々なのかを知ることから始めねばなりません。

まずは,私が自分がゲイだと気付いたしょうもないエピソードを…(読み飛ばしてもOK☆)

 さて,皆さんの初恋は一体いつだったのでしょうか。小学校4年を過ぎた頃から身の回りに付き合っている男女が何組かいたのを記憶していますが,私はというと恋愛の「」の字も知らなかった。男子も女子も誰に対しても好きだなどと思ったことは一度としてなかったのです。(なんてったって「2人が愛し合っているのを神様が感じ取って子供を授けてくれるんだ」,と真面目に!信じていたのですから!!)

 それで,「症状」が現れ始めたのは中学1年の冬でした。私が仲の良い女子2人と図書委員会の仕事で図書室にいたときのこと。私はその女子2人とおしゃべりをしていたのですが,その肩越しに3年生の男女の先輩たちが見えていました。そしてその中の,ある男子の先輩を見つけると私は妙に彼に目がいってしまったのです。それからというもの彼を学内で見つけると見たい衝動が抑えられなくて。そうです!「イケメン-ガン見症候群」の始まりです!!(中学の在学中どれほどこれに苦しめられたことか!!)

  さて,そうしてかっこいい男子に妙に目がいってしまってなんかおかしいなぁ,変だなぁと思っていた私ですが(それが恋愛感情だともよく分かってなかった),ある日「ゲイ」という言葉に出会ったのです。私は吹奏楽部でクラリネットを吹いていましたが,そのパート練習でのことでした。私は男子1人で,あとはみんな女子でしたが,どういうわけか「ゲイ」の話になったのです。私はなにせピュア!でしたから,ゲイなんて言葉知りません。だが,聞いているとどうやら男が好きな男のことらしい。「おお!これだ!僕はゲイなんだ!!」これが私の「ゲイ」との出会いでした。

ああ,何てことだ!「ゲイ」も社会的構築物にすぎないだなんて!!

 さて,こんなエピソードに始まり,おかげさまで?,現在私は自分がゲイであることに何の後ろめたさも感じませんし,むしろ誇りに思うようになりました。ですから「ゲイ」という性的アイデンティティは大切な私の一部です。しかし,ここでとんでもない敵が現れたじゃあありませんか!!なんと「ゲイ」というアイデンティティのカテゴリーも社会的に構築されたものだとおっしゃる!!「ゲイ」というものにとても愛着を持っている私にとって確固たる「ゲイなるもの」は絶対に存在していてもらわなければ困るのに!!どこかの誰かさんなんて『脱アイデンティティ』なんておっしゃるんですよ?(だから下のツイートのような,あなたも同性を好きになるかもしれませんよ的話は大嫌いなのです。そんな誰にでもゲイになられてたまるか!という風に)ただ,私も少し感情的に過ぎるのであって,この間大学の市民向け講座で聞いた話によると,たとえばクィア・スタディーズがアイデンティティを否定しているというわけでもないようなのですが。

 はい,話を元に戻して。ゲイは,ジェンダー論に興味を持ちやすい傾向がありますが(ジェンダーのゼミの圧倒的ゲイ率を見よ。),私も例に漏れず大学1年生のときはジェンダーの本を読んでいたものです。しかし,どうも好きになれない。なぜか。それはそうした本は全て構築主義の立場で書かれているからです社会学者の著作ではないものからの引用ですが,たとえば下のような言説はまさに構築主義的なものです。文筆家の牧村朝子氏による著書『同性愛は「病気」なの? ー僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル *2から。

同性愛の原因については今まで,医学・遺伝子学・動物行動学・社会学などあらゆる学問分野で研究されてきましたが,「これが原因です!」とすべてを語りつくした論文はひとつも出てきていないという状況です。おそらく,今後も出てこないでしょう。なぜなら,"同性愛の原因"を考えるという態度は,しばしば「同性愛者は同性愛者でない人とは客観的に区別できる」*3という前提の上に成り立っており,この一歩手前の問いを置き去りにしたままの態度だからです。

 え?この人は何が言いたいのかって?そんなの私も知りませんよ。でもきっとこういうことです。私たちはこんな風に考えがち。あたかもこの世界に当然「ゲイ」というカテゴリーに含まれるべき「ゲイなるもの」をその内に秘めた人々がいて,そうした人々を指す言葉として「ゲイ」という言葉があるべくしてあるのだ,と。でも構築主義的な考え方をする人はそうは考えません。ではどう考えるのか。

サピア=ウォーフの仮説

 たとえば,次のように考えるのです。サピア=ウォーフの仮説(Sapir-Whorf hypothesis)で有名なベンジャミン・リー・ウォーフBenjamin Lee Whorf, 1897-1941)*4の1940年の論文「科学と言語学(Science and Linguistics)」*5から。

 われわれは,生まれつき身につけた言語の規定する線に沿って自然を分割する。われわれが現象世界から分離してくる範疇とか型が見つかるのは,それらが,観察者にすぐ面して存在しているからというのではない。そうではなくて,この世界というものは,さまざまな印象の変転きわまりない流れとして提示されており,それをわれわれの心−−−つまり,われわれの心の中にある言語体系というのと大体同じもの−−−が体系づけなくてはならない

 そしてこうした考え方を裏付ける例として有名なのは,ウォーフによって有名になったエスキモー語の話です。私たち日本人は,どんな状態の雪も「雪」としか言うことができないけれども,エスキモー語では「降る雪」,「積もった雪」,「氷のように固めた雪」,「解けかけの雪」,「風に舞う雪」などに対応する言葉をもっていて,それらすべてを違ったものとして認識するのだそうです*6。こうした話は何とも信じがたいですが実際認知のレベルでもそうであるらしいということが,認知科学者の今井むつみ氏による著作ことばと思考*7の中で大変面白く説得的にまとめられています。

まとめ

 うん,ちょっと話が逸れました。こうした世界観は私なりにまとめるとこうでしょう。「もともと世界は連続的で何の境界線もない。ただ人間が言語によってそこにカテゴリーをつくって初めて,そうしたカテゴリーによって分けられたモノを認識することができるようになるんだ」。そしてこれを本題の同性愛の話に戻すとこうなります。セクシュアリティのあり方は実際には既存のカテゴリーでは言い尽くせないほど多様で(ほら,性は連続的だ!グラデーションだ!ってよく聞くじゃありませんか?*8),ストレートゲイレズビアントランスジェンダーといったカテゴリーは決して自明のものなのではない。こうした考え方は性科学者アルフレッド・キンゼイAlfred Kinsey, 1894-1956)の次の言葉によく表されています*2

男性は,異性愛者と同性愛者という2つの不連続な集団からなるわけではない。…自然界に不連続なカテゴリがあまり見当たらないというのは,分類学の基本である。ただ,人間の価値観だけがカテゴリをつくりだし,ものごとを別々の小さな箱に無理矢理押し込めているだけなのだ。命ある世界は,なにもかもすべてがつながっている

 そしてこんなふうに性は連続的だから,「ゲイ」という言葉にピッタリ対応する「ゲイなるもの」がはっきりと世界に存在しているわけじゃない。そして同性愛の背景を探る自然科学的研究はそういう本当はあるはずのない「ゲイなるもの」の存在を前提にして,原因を探し出そうとしている。こんなふうに構築主義の立場に立つ社会学者の人たちは考えているのではないでしょうか。だからこそこんな言葉が出てくるのです。「これが原因です!」と言えるものは「今後も出てこないでしょう」*2

 さて,これで今回の目標は達成です。社会学者の人たちが考えていることも少しは分かった?ところで,次回は,社会学者の人たちがこうした構築主義的な考え方を好むのはどうしてなのか,(遺伝とかの話が大好きな人には回り道ですが)同性愛を取り巻いてきた歴史的な事情を振り返ることで考えることにしましょう。

*1:河口和也・風間孝, 2010,『同性愛と異性愛岩波書店, 3, 6, 8.〈流〉◯

*2:牧村朝子, 2016,『同性愛は「病気」なの? ー僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル星海社, 16, 188〈流〉◯

*3:こうした見方は「本質主義」として批判的に扱われます。無論,私は「誇りある本質主義者」運動をしているのです。

*4:ウォーフは構築主義とは関係ありませんが,しかしその考え方は社会学における構築主義的なものの見方に通じるものです。実際,ジェンダー論の入門書『ジェンダー論をつかむ』〈未〉の中でも構築主義の説明にウォーフが言及されています。

*5:Whorf, Benjamin L., 1940,“Science and Linguistics,” MIT Technology Review,42: 229-231. (=1993, 池上嘉彦訳「科学と言語学」ジョン・B・キャロル編『言語・思考・現実講談社,153) 〈未〉〈聞〉◎

*6:酒井邦嘉, 2002,『言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか中央公論新社, 62.〈流〉◯

*7:今井むつみ, 2010,『ことばと思考岩波書店.〈流〉◎

*8:「性はグラデーションである」という耳慣れた話ですが,本当はグラデーションではないかもしれない,という興味深い記事がありました。私もまだちゃんと見ていませんがご参考までに。

www.ishiyuri.com

同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか(1.2)

同性愛は病気なのか

 この記事「同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか」は1記事では完結していません。まずは<目次>をご覧いただき,そちらから皆さん各自気になる記事をお読みになって下さい。

精神医学における現在の立場(1.2)

「同性愛は病気なのか」という問い(1.2.1)

 性的マイノリティに対する認知は,いわゆる"LGBT"という言葉と共に急速に広まった。しかし性的マイノリティの権利拡大をめぐっては,そうした性のあり方が「生物学的に異常」であるとの声が上がることがある*1。そしてそのとき私たちは「同性愛は病気なのか」という問いに直面するのだ。「同性愛は病気なのかもしれない」という感覚は,当事者の若者の以下のようなツイートに印象的に表れている*2

「同性愛は病気ではない」ということになっている(1.2.2)

 結論を先に言うと,現在の精神医学の領域における「同性愛は病気なのか」という問いに対する答えは,NOだ。精神医学の学術雑誌『精神科治療学』の2016年8月号の中で精神科医の針間克己氏は以下のように強調している*3

ここまでにすでに記したことであるが,最重要項なので再確認する。LGBT精神疾患ではない。本誌,「精神科治療学」がLGBTの特集を組んでいるが,それは「LGBT精神疾患として治療する」という趣旨ではない。LGについては,脱精神病理化の運動を受け,精神医学会の議論の中で到達した「精神疾患ではない」と理解されるものである。Bはそもそも,精神疾患ではない。Tは議論の最中であるが,少なくともトランスジェンダーという言葉自体は,精神疾患を意味するものではない。トランスジェンダーの中で一部の苦悩が著しい者や,身体治療を求める者が,医学的疾患として扱われるのである。

  私もこうした現在の認識を否定して「同性愛は病気である」と強弁する気は全くない。ただ,上の引用にもある通り同性愛は現在精神疾患とは見なされませんが,こうした認識は脱病理化の運動を経て広まったもので,かつては同性愛が精神疾患だと見なされていた時期もある。

 そして,このようなことを踏まえたとき生じるのは次のような疑問だ。「では,どのような同性愛に対する認識の変化があったから,同性愛が精神疾患から外されることになったのか。何か同性愛に関して新たな知見でもあったのか」と。しかしながら,「同性愛は病気ではない」と書いている本は多々ありますが,それがなぜか詳述していることは滅多にありません。少なくとも,同性愛の脱病理化を「同性愛者の活動家たちが勝ち取った最大の成功」*4などと言って手放しに喜んでいるのを読んでも,とりあえず「同性愛は病気ではない」という結論が都合の良いものだから,さして深く考えることもなくその結論を受け入れているようにしか私には見えない。

 ただ,社会学ジェンダー関係の人々が,そのような態度を取っているのも私としても心当たりがないわけではない。というのも,彼らがいつも大好きなように「ゲイ」だの何だの言う性的アイデンティティのカテゴリーは社会的に構築!!されたものであって,そうしたものの原因を探る試みは愚かな!ことであるらしいからだ。

…とちょっと無駄に挑発的な書き方をしたところでこの記事はこれくらいで一旦切って,つづき(同性愛は病気なのか,そうでないならばなぜそうでないのか(2) - 社会学者が同性愛の自然科学的研究に冷たいのはなぜかって話。)は後で書くことにしよう。

redqueen.hatenablog.com

*1:たとえば2015年の11月と12月にそれぞれ問題となった,神奈川県海老名市の鶴指真澄市議(71)の不適切ツイートや,岐阜県の藤墳守県議(74)の発言はその典型だろう。

*2:1番目のツイートは同性愛と性同一性障害とを混同していますが,両者は全く違うものだ。ただ,ここではそんなことは枝葉末節であり,ここに書かれているとまどいの気持ちこそが大切である。

*3:針間克己, 2016,「LGBTと精神医学」『精神科治療学』31(8): 967-971.〈流〉◯

*4:河口和也・風間孝, 2010,『同性愛と異性愛岩波書店, 90.〈流〉◯

はじめまして

私は都内の大学に通う男子大学生です。

このブログでは,主に私が日々読む本から刺激を受けて考えたことを書きます。

始めようと思ったのは,いつもあれこれ思いを巡らしているのに何も形に残らないのがもったいないように思われたからです。

私の現時点での興味の対象は以下の通りです。

私が上記のような関心を持つ理由は,記事を書いていく過程で徐々に明らかになっていくだろうと思います。ただ,一言だけここで述べておくことにすると,私にとって極めて重要な事実として,私がゲイであるということがあります。ですから,このブログでは,先述の諸分野に関連したことを書くと言っても,それは特にそうしたセクシュアリティに絡めた話になることが多くなるでしょう。

 

おわりに

最後に断らせていただきたいことが2つあります。

  1. 一部の方に不快な感情を抱かせてしまう記述があるかもしれません。
  2. 各分野に精通している方にとっては初歩的な誤りがあるかもしれません。

 まず,今後私が書く内容には一部の人に対して不快な感情を抱かせるものが出てくるかもしれません。というのも,ジェンダーセクシュアリティ界隈は予てからできることならあまり足を踏み入れない方が賢明な地雷地帯であってきましたから。(『社会生物学*1の著者エドワード・オズボーン・ウィルソンはかつてフェミニストの女性たちに水を浴びせかけられました。実際には彼はリベラルな思想の持ち主だったのですけれども。*2)加えて私はオーソドックスなジェンダー研究の議論があまり好きではありませんからなおさらのことです。ただ,誤解して欲しくないのは私は決して差別主義者ではないということです。(自分自身ゲイなのですから,そんなことをしても自分で自分の首を締めるだけです。女性を取り巻く社会環境も改善されていくことを願ってやみません。)

 また私はあれにもこれにも手を出しているがために,正確な理解を得たいとは日頃から思っていますが,各分野に精通している方からすると大いに初歩的な間違い・誤った理解も多々あることと思います。そのような場合にはどうか「何てバカな奴だ!!」と見捨てないで,ぜひ指摘していただけたらそれほど光栄なことはありません。何しろこのブログを始めたのも自分で考えているだけではとんでもないミスがあるかもしれないから,何がしかのフィードバックを得られたらと思ったがゆえのことであるのですから。

*1:Wilson, Edward O, 1975, Sociobiology: The New Synthesis, Cambridge: Harvard University Press.(=1999, 坂上昭一訳『社会生物学新思索社.)〈未〉〈聞〉◎

*2:Alcock, John, 2003, The Triumph of Sociobiology, Oxford, UK: Oxford University Press.(=2004, 長谷川眞理子訳『社会生物学の勝利―批判者たちはどこで誤ったか新曜社.)〈流〉◎